恋人という所有は幻想でした。
以前いい仲だった男性が夢に出てきたので、恋愛について改めて考えるようになった今日この頃。
私は恋愛において「好きです。付き合ってください」が何より大事だと考えていた。
それは恋人というお互いが認めた関係になると面と向かって好きと言えるし、休みの日は優先的に会ってくれるだろうし、相手が浮気したときとか自分の誕生日を忘れたときに「なんで!!」と責められるから。
とにかく「自分のものとして扱っていい権利」が手に入るから、その確約のためにも言葉が必要だと思っていた。
だけどそもそもこの考え、めっちゃ間違ってるね?と気づいたのである。。
人間同士は、恋人でも夫婦でも、親子ですら所有できない。
人それぞれ一人ひとり、独立した個体なのだから。
テーブルに並べられたふたつのりんごは、お互いを所有物として干渉することはない。(さとうみつろう著・悪魔とのおしゃべり より)
そもそも何かを「所有する」ということが、生き物特有の幻想らしい。
たしかに死んだらあの世には何も持っていけないし、食べ物ですら食べたところで栄養かうんこになって終わりだし。
なのに所有の幻想に強く縛られてるから争いが起こって、死者が出て悲しみが生まれる。もしかして人間の苦しみの元凶は、この所有の概念なのか???とすら思えないでもない。
ということで、私はとにかく線引きしたがる所有権主張マンでした。
恋人とは自然発生するものではなく、諾成契約によって発生し、その際はお互いを所有する権利を有する。という独特の恋愛法が私の中にずっとあったのです。
「付き合いましょう」「はい」から恋人というスタートラインを切り、友人と一線を画した人間関係が始まる。目に見えない線が引かれるものとずっと思っていた。
でもこれからは、恋人になるとかならないの言葉なんてどうでもよくなってしまおう。
好きだったら遊びに誘って一緒にいれるようにするし、相手もそう思ってくれたならそう思ってくれてるうちは一緒にいる。自分のものじゃないから、相手が他の女の子と遊ぼうが何しようが私には何もできない。それが嫌なら離れていけばいい。いちいち別れるなんて言わない。恋人かどうかなんて線引きする必要なんてない。
今まで「付き合おうとかの告白しない」っていう(大体大人な考え方をしている)人たちをあり得ないって思ってた。
そんなん、相手が遊びだったり既婚者だったら自分が傷つくだけじゃん!ちゃんと恋人って確約とって、傷つけられたときは責めないと!って思ってたなぁ。。
傷つけられるのが怖かったんだね、自分。あとは好きっていう気持ちが無駄になったとき、それでもいい恋愛だったって立ち直れる程の自尊心も持ち合わせていなかったんだろうなぁ。
でも今いろんな考えが変わってきて、やっと言葉がいらないって境地が理解できてきた。
まぁ、これから先すぐに新しい考えのもと行動できるかは分かんないけど…。
他人は自分の所有物にはならない。それは結婚しても同じ。そのことを肝に銘じて好きな人との恋愛を楽しめばいい。
形に縛られて大事なことを見落とすのはもうやめよう!(ぺこぱ松陰寺太勇風)